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STEEL CAN AGE

MAIN REPORT

スチール缶をエコプロダクツに進化させた鉄づくりの技術革新の歩み

人類はブリキと呼ばれる鉄を使って、新鮮でおいしい食べ物や飲み物を旬のまま保存できる容器「スチール缶」を生み出しました。日本では欧米に学び、鉄づくりの技術に磨きをかけ、今や世界最高水準を誇る“環境にやさしい”スチール缶をつくっています。今回のMAIN REPORTでは、スチール缶をエコプロダクツに進化させた、鉄づくりの技術革新のターニングポイントについて、大和製罐(株)の池田昌男顧問に解説していただきました。

薄さへの挑戦の原点

1923(大正12)年 ブリキの国産化に成功

鉄は強くて硬いにもかかわらず、薄く延ばしたり、切ったり丸めたりくっつけたりすることができます。人類はこうした鉄の特性を使いこなして、さまざまな道具をつくってきました。食品缶詰や缶飲料の容器であるスチール缶もその一つです。スチール缶の素材には、薄く延ばした鋼板(薄板)に錫をめっきしたブリキが長年使われてきました。

19世紀初めにイギリスでブリキの缶詰産業が始まると、19世紀後半にはアメリカで自動車産業と並ぶ一大産業として開花しました。同じころ日本では、イギリスやアメリカなどの輸入ブリキを使って手作業で缶をつくり、中味を充填した缶詰が1872(明治4)年に初めて試作されました。そして日露戦争(1904~05(明治37~38)年)が終わると、北洋漁業が盛んになり、アメリカの製缶技術を導入してサケやマスなどの缶詰が大量生産され、外貨獲得に大きく貢献します。缶詰が輸出産業の花形になると、缶素材の安定供給が求められ、ブリキの国産化が大きな課題となりました。

1901(明治34)年、官営八幡製鉄所が操業を開始すると、鉄鉱石から鉄分を取り出し鉄鋼製品までを製造する一貫鉄鋼生産体制が整い、鉄道用レールや船など構造物に使われる厚い鋼板(厚板)が生産されました。しかし1910年代(明治末期~大正期)に入っても、缶の素材となるブリキは100%輸入に頼っていました。その最大の理由は薄板をつくる技術の壁があまりにも高かったからです。

ブリキをつくるためには、鉄鉱石から鉄分を取り出して、溶けた鉄の塊を加熱と圧延を何度も繰り返しながら0.3ミリ前後の薄板に加工し、さらに多くの処理技術が必要で、他の製品に比べてはるかに工程数が多く、高度な技術が求められます。欧米でもブリキは、18世紀末からイギリスが独占的に生産を続け、1890年ころまでアメリカでさえ商業生産に入れませんでした。近代製鉄が始まって間もない日本にとって、ブリキの国産化が実現できなかったことは無理もありません。

官営八幡製鉄所は1917(大正6)年にブリキ工場を建設し、独力でブリキ製造に挑みました。しかし、すぐに暗礁に乗り上げてしまいます。それが1921(大正10)年、薄板製造で豊富な現場経験を持つドイツ人技師ワルター・ルオスキーが来日すると、状況は一変します。ルオスキーは日本人の特質をよく研究しながら、先進技術の指導にあたりました。その誠意あふれる指導に製鉄所員が一丸となって全力で応えた結果、ブリキ製造技術は急速に改善され、1923(大正12)6月ついにブリキ製造の国産化に成功しました。

これが日本における薄板製造の始まりであり、スチール缶の薄肉化・軽量化によるリデュースを実現する技術革新の原点といえます。

省資源を極める

1955(昭和30)年 電気めっき法の導入

1941(昭和16)年、八幡製鉄所でブリキの国産化を担ってきたプルオーバー圧延に代わって、アメリカで開発されたホットストリップミル(熱間連続式圧延)が、日本で初めて導入されました。ブリキ製造は畳型の鋼板を900~1,100℃の高温で圧延(熱間圧延)、続いて常温でさらに薄く圧延(冷間圧延)、最後に薄板表面をめっきする自動化工程となりました。プルオーバー圧延は手作業だったため、形状が平坦にならず、板厚のバラつきが多く、外観品質も劣っていました。圧延工程の手作業がなくなることで、ブリキの品質と生産性は大幅に向上しました。

さらに1955(昭和30)年には、熱で溶かした錫にどぶ漬けする溶融めっき法に代わって、電気めっき法によるブリキの商業生産を開始し、圧延との連続量産体制が整いました。電気めっき法とは錫イオンを含んだ水溶液中で電解するもので、溶融めっき法に比べて2分の1以下の薄さで均一にめっきできるようになりました。

1961(昭和36)年 世界で初めて錫を使わない鋼板を開発

昭和30年代に入ると、錫の資源枯渇が世界的に懸念されるようになり、ブリキに代わる缶用表面処理鋼板の研究開発が欧米で進められました。こうしたなか1961(昭和36)年、まだ後進国であった日本が世界に先駆けてTFS(ティン・フリー・スチール)の開発に成功する快挙を成し遂げました。TFSとは錫(Tin)を必要としない(Free)鋼板(Steel)という意味を込めて名付けられました。スチール缶の省資源への取り組みは、すでにこのころから始まっていたのです。欧米の背中を見ながら走ってきた日本の鉄づくりの歴史において、初めて欧米の技術を追い抜いた瞬間でした。これを契機に日本独自の新技術が数多く誕生することとなり、日本の鉄鋼業は世界への発信基地に変貌していきます。

1970(昭和45)年 飲料缶の扉を開いたTFS接着缶

日本で開発されたTFSはハンダ接合ができないため、当初は用途が限られていました。しかしTFSを高く評価したアメリカの世界的製缶メーカーACC(アメリカン・キャン社)とCCC(コンチネンタル・キャン社)が、新しい接合技術を開発し、実用化の道が切り拓かれました。

アメリカでは急速に需要を広げていたビールや炭酸飲料市場に、アルミ缶が新たに参入していたため、スチール缶で経営基盤を築いてきた製缶メーカーは、さらに鉄鋼メーカーに対してTFSの国産化を要請しました。アメリカの鉄鋼メーカーはさらなる研究開発を重ねましたが、TFSの国産化を実現できず、最終的には他の鋼板製造技術とのクロスライセンス契約を日本の鉄鋼メーカーと締結しました。TFS製造技術はアメリカをはじめとする海外で技術供与され、日本のオリジナル技術が世界を席巻しました。

1965(昭和40)年ころ、アメリカでは全缶詰の約30%がビールや清涼飲料で占められるようになりましたが、日本では10%未満にとどまっていました。1970(昭和45)年の大阪万国博覧会で、東洋製罐(株)が開発したTFS接着缶の缶ビールが初登場すると、転換期を迎えました。日本人のアメリカへの憧れとライフスタイルの変化に溶け込んだ飲料缶は、急激に需要を伸ばし、1976(昭和51)年には57%を超えました。

飲料缶時代が始まると、あき缶のポイ捨てによる散乱ごみと埋立処分場の逼迫が社会問題化しました。1973(昭和48)年、あき缶処理対策協会(現在のスチール缶リサイクル協会)が設立され、使用済みスチール缶の散乱防止と再資源化の取り組みを開始しました。回収されたスチール缶の鉄スクラップに含まれる錫は、リサイクルをする上で鋼材品質の低下をもたらす要因の一つとなっていました。しかし錫を使わないTFSの普及によって、スチール缶のリサイクル品質は向上し、今日の高いリサイクル率に大きく貢献しています。

軽量化を極める

1973(昭和48)年 クリーンな鉄とDI缶の開発

アメリカのビール・炭酸飲料の容器市場は、TFS接着缶が開発されたものの、アルミDI缶が大きなシェアを占めるようになりました。DI缶とは絞り加工(Drawing)としごき加工(Ironing)を連続的に行い、円筒状に成形する製缶法です。成形後は缶胴と缶底が一体となり、飲料の充填後は缶蓋を巻き締めるため、2ピース缶と呼ばれています。しごき加工の効果で缶高さが深い容器に仕上げられ、ビールや清涼飲料のように縦長の缶を製造することに適しています。

当時のスチール缶は缶胴部、缶底、缶蓋からなる3ピース缶のみだったため、日本の製缶メーカーはスチールDI缶の開発に乗り出しました。しかし従来の鉄では、絞り加工としごき加工によって、ブリキ板厚を3分の1まで薄く延ばしながら、成形することができませんでした。その原因は鉄の中に混じっている、直径10~100ミクロンの肉眼では見えない小さな介在物にありました。介在物は鉄よりも延びにくいため、成形時に割れなどの不良を発生させていました。

DI缶用ブリキの開発を目指して、鉄鋼メーカーと製缶メーカーによる共同研究が始まりました。ここで注目されたのが、1970(昭和45)年八幡製鉄所に設置された連続鋳造設備でした。連続鋳造とは溶けた鉄が固まる過程で、圧延に適した一定の形の鋼片という半製品をつくる技術です。溶けた鉄を冷やして固める造塊工程を省くことができ、溶けた鉄から鋼片まで一度につくれるようになり、生産性向上と省エネルギーを実現しました。この連続鋳造設備を駆使して、1973(昭和48)年に介在物の少ないクリーンな鉄をつくる技術を確立し、世界初のスチールDI缶が大和製罐(株)によって開発されました。

ブリキの連続鋳造化はスチール缶の軽量化を加速させるだけでなく、その成果は自動車や建材、家電用鋼板の連続鋳造化にも大きく貢献しました。薄くて強く、そして加工性に優れた鉄の特性をさらに進化させたのです。

エコを極める

1978(昭和53)年 溶接缶の誕生でさらなる軽量化

ブリキ缶の誕生以来、接合部にはハンダが使われてきました。ハンダは錫と鉛の合金であったため、鉛の溶出が食品衛生上の問題となりました。また3ピースハンダ缶では缶胴の接合部は鋼板を二重巻締で接合していたため、板厚は4倍になり、蓋の巻締が完全にできず、飲料漏れトラブルの原因となっていました。しかし新しい溶接技術と溶接缶用表面処理鋼板が開発され、これらの問題を解決しました。接合部の重ね幅を0.4ミリまで縮めることに成功、巻締性が向上するとともに、接合部の強度がアップし、板厚が薄くなったことで、缶のさらなる軽量化にも貢献しました。1979(昭和54)年に大和製罐(株)で溶接缶の製造が始まると、トマトジュースやコーヒー飲料に採用されました。

1991(平成3)年 環境にやさしいラミネート缶の開発

平成期に入ると、地球環境に関する議論が活発になりました。そのニーズを先取りして、鉄鋼・製缶・化学メーカーが協働し、1991(平成3)年にポリエステルフィルムをラミネートしたTFSによるラミネート2ピース缶TULCを東洋製罐が開発しました。

2ピース缶の代表だったDI缶は、成形性を良くするため潤滑剤とそれを洗い流すための水を使い、成形後に缶内面の塗装工程とオーブンによる焼付工程が必要でした。しかしTULCは、新しい成形方法によって潤滑剤とその洗浄用の水が不要となり、さらにフィルムラミネートにより、製缶後の缶内面の塗装・焼付工程がなくなり省エネ効果をあげるとともに、CO2排出量も大幅に抑えることができました。

さらに1994(平成6)年には、ラミネート3ピース缶を大和製罐と北海製罐(株)が開発しました。缶胴外面にグラビア印刷をしたフィルムを、内面にもフィルムをそれぞれ貼り付けることにより、これまで必要とされていた塗装や印刷のオーブン乾燥工程がなくなったため、製缶時のエネルギー消費やVOC(揮発性有機化合物)排出を大幅に抑えました。こうした技術開発によって、多くの飲料缶にラミネート技術が採用され、欧米から導入した缶材料の製造技術と製缶技術は、完全に日本の技術に置き換えられました。

スチール缶やその素材である鉄は、軽量化や省資源化など環境に配慮した技術の結晶が詰まっています。そして使い終わったあと分別排出・収集する仕組みと、リサイクルする技術や設備が整っているからこそ、90%を超えるリサイクル率を実現しています。さまざまな素材があるなか、スチール缶は持続可能な循環型社会にふさわしい容器として、これからもエコを極めていくことでしょう。